イレギュラーの中の普遍。
Naoyaです。
今日は二十四節気の20番目、小雪(しょうせつ)です。北国や山間の地域ではそろそろ雪が降る頃、という意味。そして今日から射手座のシーズンが始まります。
冬の節気だというのに、ここ数日は生温く暖かい陽気です。地元のショッピングモールに設置されたアイススケートの特設リンクの氷が解けていて、風が水面を撫でながら小さなさざ波を立てていました。リンクがオープンする時刻に準備してしっかり凍結させるとは思いますが、暖かさを視覚で感じました。
桜の開花が早すぎる春。雨が降らない梅雨。暑くない夏。寒くない冬。そういう季節もたまにあるわけですが、暦という基準にきっちり当てはめて季節を判別しようとするがあまり、ちょっとでもその基準から外れると異常気象扱いされる流れが、最近はとても多いように思います。暦はあくまでも目安であって、その年によっていろんな違いがあって当然だと個人的には思っています。冬が冬らしい冬で、夏が夏らしい夏であって欲しいとは思うのですが、自然は人間のエゴではどうにもならない領域だと痛感することが多くなってきています。
「例年の」という表現自体、古めかしいように思えます。今年は例のウィルスによってイレギュラーなことの連続だからこそ、そういう言い方が余計に古いように思えます。まるで古い概念をあのウィルスがぶち壊しているかのようです。常に新しい基準の見直しを図りながらアップデートしていくことが、これからはさらに必要になっていくように思えます。
通常とか例年として捉えていることであっても、イレギュラーの連続の中にあるものだと思っています。イレギュラーなことの連続の中にある、同じ部分や普遍的な部分だけに目を向けることで、通常とか例年という概念が生まれているだけだと思うのです。ずっと変わらず同じままであることって、僕はかなりの奇跡だと思っています。「ずっと同じままであって欲しい」という願望を胸に秘めている人はとても多いです。
常に変動し続ける部分と普遍的な部分。すべての物事はこのふたつの側面を持ち合わせていると思います。ガチガチな型にはめて判断せずに、いかに柔軟に受け取ることができるかが大切なのではないでしょうか。
とはいうものの、やはり生温い冬よりもキリッと冷えた冬が待ち遠しい今日この頃です。
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