宛もなく待ちわびる。
Naoyaです。
今日は二十四節気の4番目、春分です。春の中心の節気で、昼と夜の長さが同じになる日。春のお彼岸の中日に当たります。ここから夏至に向けて、さらに昼の時間が長くなっていきます。
そして春分は十二星座の最初の星座、牡羊座の始まりでもあります。ここから宇宙の一年のサイクルが、また新たに始まります。
東京ではそろそろ桜のシーズンに突入です。僕はよく中目黒辺りを散策していますが、目黒川沿いの桜たちも蕾を膨らませて、徐々に咲いてきています。
多くの人がこの時期、安定した暖かな春の陽気や桜が花開くのを、今か今かと待ちわびていると思います。
この「待ちわびる」という感覚は、日本人特有のものかもしれません。そのときが早くやって来て欲しい、と期待しながら時間を過ごすという「待ちわびる」という感覚は、単なる「待つ」とは明らかに違います。
特に、四季の中でも春は「待ちわびる」という要素が多い季節。矢野顕子さんの「春咲小紅」という歌も、いつ咲くかしらと待ちぼうけする内容で、まさに「待ちわびる」という心象がうまく表現されています。
西洋でもクリスマスのシーズンは、アドベントカレンダーの小窓をひとつずつ開きながらクリスマス当日を待ちますが、日数が決まっているのできっちりとしたカウントダウン状態です。
一方、桜の開花は気温や気象状況によって、早まったり遅くなったりするので、予測が明確にできません。そんな「つかみどころのないものを待つ」という繊細な感覚は、どこか奥ゆかしくて風流に思えます。
今の時代。わからないことも手元のスマホで検索をすれば、一発で解き明かせるし、連絡を取りたいと思った相手には、すぐに連絡を取ってレスポンスをもらうことができます。LINEでメッセージを送ったら、既読がついたかついていないかでの一喜一憂も、昔にはなかったもの。ネットで注文したものも、サーヴィスの選び方次第であっという間に届きます。
知りたいものがすぐに知れて、欲しいものがすぐに手元に届く時代。「宛もなく待ちわびる」という感覚は、昔に比べるとより薄らいでいるのではないでしょうか。
待ちわびるというのは、心に余裕が持てるからこそできること。現代は利便性に満ち溢れた時代ではあるものの、その反面で、心の余裕を削ぎ落としやすい要素やきっかけも多くなっています。効率のよさを求める部分も必要ですが、そんな時代だからこそ、心の余裕をより大切にしたいところです。
桜の季節になると僕は、松任谷由実さんの「経(ふ)る時」という歌を思い出します。
四季の情景を移ろいゆく人生に投影させた内容の歌。ホテルの窓際で老夫婦が膨らみ出した桜の蕾を眺める春の訪れのシーンから始まり、その咲いた桜の無数の花びらが散り、薄紅の砂時計の底になって季節は巡り、また次の桜の季節が巡ってくる。そんな季節が何年も何年も繰り返されているワンシーンを切り取った歌です。
この歌に登場するホテル。歌の感じからするとヨーロッパの老舗ホテルに思えるんですが、フェヤーモントホテルという皇居近くの千鳥ヶ淵にあったホテルがモデルです。2002年に老朽化で取り壊されて今は存在しませんが、毎年桜のシーズンを迎えると、
「皇居のお濠。千鳥ケ淵の桜が咲きはじめました」
と記しただけの、とても小さな三行広告を出していました。この広告の行間に、待ちわびていたものがやって来たことの喜びや、奥ゆかしさや風流な趣を感じます。
ちなみに僕はこの歌を初めて聴いたとき、夏の情景を描くパートでハッとさせられました。それまでのフレーズが突然マイナーコードに転調して、曲の表情に翳りを見せつつ、夏や秋の光景が回想されるように描かれながら、そしてまたメジャーコードへと戻って、桜が降り積もるエンディングへと向かって行きます。
昨年、ちょうど千鳥ヶ淵へ桜を観に行く機会がありました。夜空を背景にしてライトに照らされたたくさんの満開の桜を見上げていたら、満天の星空を眺めているようで、ひとつの小宇宙に思えてきました。そして、待ちわびていたものを待つ必要がなくなったことを感じた瞬間、時空の隙間に入り込んだようなタイムレスな感覚を体験しました。
待ちわびていたものが到来してピークを迎えると、いつしか「待ちわびる」から「名残惜しむ」という感覚へと変化していきます。「名残惜しむ」という感覚もいつ終わりを迎えるかわからないので「待ちわびる」と同じです。これも日本人特有の感覚と言えるでしょう。
春は特に不安定な季節だから、心身のバランスが取りにくくなると思います。でも、不安定なことに触れて揺れるからこそ、安定がどういうものかを知ることができると捉えてみてください。
四季の移ろいに連動した日々の心の微細な動きを観察しつつ、春を楽しんで過ごしてください。
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