目に見えない部分を大切にする。
Naoyaです。
最近、映画をよく観ています。アマプラやNetflixでは、ほぼ毎日何かしらを観ていますし、劇場にもよく出向いています。洋画邦画を問わず、自分が気になったものを観ます。
先日、「流浪の月」を観てきました。「悪人」といい「怒り」といい、やっぱり李相日監督の作品って熱量がかなり高く、今回も同様に高かったので、かなり疲労感がありました。もちろん、悪い意味じゃありません。
李監督の作品では、独特な役づくりのための時間があるそうで、今回も松坂桃李は大学時代に住んでいたという設定の風呂なしアパートでひとりで寝泊まりしたり、横浜流星はその役が得意とする会社での宴会芸を披露したり、広瀬すずは事件後に社会人になるまで過ごした場所に出向いたりして、松坂演じる文と会えなかった15年の歳月をきちんと埋める作業をやったのだそうです。すべて役づくりのための下準備で、それ自体を撮影したわけではありません。その結果、素晴らしい役者さんの演技がより研ぎ澄まされて、心を動かすリアリティを帯びていました。
そういえば、李監督の前作「怒り」のときも、恋人同士の設定だった妻夫木聡と綾野剛が一緒に暮らしてみたり、森山未來は撮影よりひと足先に現場の離島に入って、役と同じような野宿をしてみたりしたというのを聞きました。これらはすべて、カメラが回っていないところでの作業で、もちろん直接そのシーンが作品に映ることはありません。
河瀬直美監督も撮影前や撮影進行中に「役積み」というものがあるそう。「朝が来る」のときに夫婦役の井浦新と永作博美が、現在の夫婦に至るまでの過程をいろいろと詰んだそうです。たとえば、恋人時代のデートをしてみたり、温泉宿で食事をしたり、暮らしを共にしてみるというプロセスを経てから撮影に臨んでいたそうです。もちろんこれらも、直接映ることのないものです。
単にセリフを覚えてその役を演じるだけではないので、その分時間も労力も掛かるわけですが、こういうプロセスも実際の演技やスクリーン上に反映されるものだと僕は思っています。
直接目に見えないものを大切にすることって、実はとても大切だと体感したことがあります。
20代の頃にひょんなきっかけで、広川泰士氏さんという有名フォトグラファーのモデルをやったことがありました。広川さんが幼少時代に育った海の近くのお屋敷での撮影。弦楽三重奏の女性たちと一緒というシチュエーション。ヘアメイクを終えて、美しいドレスに着替えた女性たちが椅子に座ったとき、スタイリストさんが靴を箱から出しながら「靴、どうしますか?ドレスの裾で完全に隠れちゃいますけど」と言ったところ、広川さんは履かせるようにと指示を出しました。写真としては一切見えませんが、でも、美しいヒールを履くのと履かないのでは、モデルの女性たちの気持ちだけでなく、作品の空気感はまったく違うものになると思います。目に見えない部分も外側に滲み出てくるんです。どこかしらに必ず。
古内東子が「淡い花色」という歌の中で歌っていたフレーズ「会えないときこそ綺麗でいよう」というのも同様だと思います。人と会っている時間以上に、会っていないときこそ手を抜かないことが大切だと思います。
直接目に見えないものって、そこからわかりやすく得られるベネフィットを実感しづらいので、バッサリと省いてしまう、もしくは元々ないものとして捉える人のが圧倒的に多いかと思います。でも、目に見えない部分にも丁寧に手を掛けているものは、見る人が見ればちゃんとそういう丁寧さが判るものだと僕は思います。
今日は二十四節気の8番目、小満です。ますます陽気がよくなってきて、万物が次第に成長して天地に満ち始める頃。小満は十二星座の双子座シーズンの始まりでもあります。新緑がとても鮮やかなとき。いつもなら今くらいの時期に熊野や京都へ行ってましたが、ここ数年は行ってません。今年も行くのをやめました。表立った行動を起こしてない時間こそ大切にしつつ、丁寧で地道に自分の充実を図っています。
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