maribrengael708

記事一覧(20)

冬がそっと翼を広げていくとき。

Naoyaです。今日は二十四節気の19番目、立冬です。冬の始まりです。今日から立春(二月四日頃)前日までが冬となります。二十四節気には「立(りつ)」がつく四つの節気があります。立春、立夏、立秋、そして立冬。この「四立」によって、日本の季節はきっちりと四つに明確に分けられています。四つの「立」は文字通り、まるで旗を "立てる" かのような季節の始まりの目印みたい。日本の季節は四つに分かれてはいるものの、冬の始まりと終わりでは、同じ冬でも空気感がまったく違っています。二十四節気はひとつの季節につき、6つの節気がありますが、節気が進むごとに季節のトーンも違うものになっていくのです。立冬を迎えたばかりの今はまだ、晩秋のニュアンスが強く漂っていて、これからさらに冬の中心である冬至に向かって、日の入りの時刻もどんどん早まっていくところ。寒さが極まった昏い冬の果てで、少しずつ光が満ちて春へと向かい始める頃とは、風景も宿るエネルギーの感触もまったく違います。同じ季節の中でも絶妙な移ろいや表情を見ることができるからこそ、日本人は微細な季節感が育まれていると言えるのかもしれません。冬は寒いから憂鬱。若い頃はそう思っていましたが、年齢を重ねた今では、夏よりも冬の方が居心地がいいと思える時間が増えているように思えます。凩(こがらし)は冬の到来を告げる冷たく乾いた北風のことです。「木枯らし」とも表記します。春は東風(こち)、夏は薫風(くんぷう)、秋は秋風、という感じで、四つの季節にはそれぞれ季節の到来を告げる風があります。凩は暮れ行く秋の風景を、たちまち冬の色に変えてしまいます。木々は落葉して、夜の時間は長くなり、街行く人たちの服装の色彩はトーンを落としていく。すべてが冬枯れへと向かって行く中、街が華やかなイルミネーションで飾られると、肌で感じることのない温かさを感じるように思えます。僕の中での冬が始まっていくイメージは、今まで懐にしまい込まれていた白くて大きな翼が、ゆっくりと広げられていくような感じ。他の季節にはない感覚です。秋から冬へと移り変わっていく空気感や、丸みを帯びていく柔らかい陽射しには、そんなものを感じます。突き放すような夏の鋭い陽射しと違う、包容力を携えたような緩やかな陽射しは、寒い時期に太陽のありがたみを改めて感じさせながら、安堵感のような気持ちを与えてくれます。これからどんどん寒くなって夜の時間が長くなっていくと、人はついつい体を縮こめて閉鎖的なマインドになってしまいがちですが、それに反するように冬は翼をのびのびと広げていくように思えます。冬の夜の静寂の中に、そんな翼の広がりの存在を感じることがあります。プレスタートのときの一番最初の投稿で書いた「森羅万象の聲」という言葉が降りてきた夜がまさにそんな感じでした。冬という旅が今日から始まりました。2019年版「宇宙詠みチャート」は予約受付中です今回はさらに詳しく、さらにわかりやすくなっています。テキスト多めの全66ページというボリューム。そして、動画解説つき。それから、12月頭には京都にてセッションやイベントがあります。詳しくはこちらをチェックしてみてください。冬の京都でお会いいたしましょう。

秋とは深まるもの。

Naoyaです。今日は二十四節気の18番目、霜降(そうこう)です。「しもふり」ではなく、「そうこう」と読みます。稲を刈り取った田んぼに初霜が降りることを意味しています。今日から蠍座のシーズンになり、風の天秤座から水の蠍座へバトンタッチです。猛暑だの台風だのに振り回されながら、気づいたらすっかり秋が深まっていますね。今の時期は涼しいというよりも、薄っすらと肌寒く感じることもあります。晴れた昼間は暖かく、とても気持ちがよくて、ブラブラと散歩がしたくなります。春はどこかスッキリとしない空気で、夏は余裕がなくなるほど暑く、冬も体が縮こまってしまうほど寒い。そう考えると今、秋のこの気候の時期が一年の中でもっとも過ごしやすいと言えるかもしれません。何気なく観ていたテレビの天気予報で知ったのですが、秋は一年の中でもっとも洗濯物が乾きづらい季節なのだそうです。スッキリとした秋晴れのイメージが強いので、意外に思えたのですが、秋は何気に雨が多いからだそう。確かに最近は雨が多いし、スマートフォンに入れいている天気のアプリから「雨雲が近づいている」というアラートが届くことも多いので、納得できます。今年は猛暑だったからこそ、やっと過ごしやすい季節になったことに安堵感のようなものを感じましたが、この秋が深まるほど今度は寒い季節がやってきます。過ごしやすい気候を名残惜しみながら見送っていく時期へと移り変わっていくのです。名残惜しむ感覚は、待ち焦がれる、待ち侘びるという感覚と同じく、日本人ならではの独特のものだと思っています。辿り着く場所は同じであったとしても、そこに辿り着くまでの時間やプロセスを味わうということ。それは気持ちに充分な余裕がないと、なかなか実践できないものです。移ろいながらいつかは過ぎ去って、自分の元から離れてしまう。だからこそ丁寧に大切に味わう。四季の移ろいを楽しむ日本人の心の根底には、こういう思いが無意識に存在しているんだと思います。2019年度の「宇宙詠みチャート」が完成して、昨日から告知がスタートしました。このオウンドメディア「森羅万象の聲」を始めたきっかけは「宇宙詠みチャート」でした。十二星座と二十四節気は深く関係しています。占星術や季節の移ろいを頭で理解するのではなく、感覚的に意識して、体感して、味わうきっかけの場になればという思いから立ち上げました。「宇宙詠みチャート」をより体感で理解できるきっかけの場になればと思います。どんどん秋が深まりながら、やがて暮れていきます。考えてみたら「深まる」という表現をするのは、春夏秋冬の中で秋のみなんですよね。「春秋(しゅんじゅう)」という言葉がありますが、年齢という意味です。「春秋を重ねる」みたいな使われ方をします。人の人生を春夏秋冬に置き換えて、春という初々しい始まりを経て、円熟して人としての深みが出てくる秋を迎える…というのが由来なのでしょう。何とも素敵な言葉です。季節の秋はさまざまな作物が実る時期であり、人生の秋は人としての円熟みが深まる時期。秋とはそういうものなのです。過ごしやすく気候がいい秋を楽しみましょう。慌ただしい日常を切り離して、ひとりで静かな時間を過ごすのに秋は最適です。自分を深めていくような、充実した時間をつくってみてください。霜降が終わると次の二十四節気は立冬。いよいよ冬の始まりとなります。

朝露が生まれる頃。

Naoyaです。今日は二十四節気の17番目、寒露です。本格的な秋の涼しさになりました。朝や晩にほんのり肌寒さを感じることもあります。冷えた朝、草木や花に朝露が宿るその露を寒露と呼びます。夜、窓を開けていると涼しい空気が感じられ、虫の声がたくさん聞こえてきます。外を歩いているとどこからともなく金木犀の香り。視覚から得た情報で季節を感じることが多いと思いますが、音や肌に触れる空気の感触、匂いからも季節を感じてみてください。うちの近所にはかなり巨大な金木犀が続いている並木道があって、そこらへん一帯にあの香りが漂っています。その並木道の近くを自転車で通るとき、視界にオレンジの花が飛び込んでくるよりも先に、微かに漂ってくる香りで金木犀の存在を感じるのです。秋はおいしい旬の食材も多いので、味覚でも季節を感じたいところ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、そして味覚。秋は五感がトータル的に研ぎ澄まされる季節、と言ってもいいかもしれません。個人的なことですが、寒露を迎えてしばらくすると誕生日を迎えます。なので、寒露のあたりは僕にとって、ちょうど一年のサイクルが終わる年の瀬のような感じ。新たな次の一年を迎える前の準備の時期に当たります。すべての人にとって、この世に生まれた誕生日というものは、真っ暗な母親の胎内の海から、まったく異なる明るい外の世界への旅立ちの日であり、環境が急激に変化したタイミングでもあります。100%安全に守られていた環境から、日に日に独り立ちしていかなくてはならない環境へ。イニシエーション、通過儀礼。外の世界への旅立ちを今か今かと待っている胎児は、無意識に混沌と不安が渦巻いているのかもしれません。誕生日前になると、状況や気持ちが不安定になるという人の話を聞きますが、それはきっとこの世に生まれたときと同じ状況のサイクルが起きているのかもしれません。誕生日を迎えるたびに、新しい自分が生まれるようです。そして、無事に誕生日を迎えられることに喜びを感じます。寒露の時期、旧暦9月9日の重陽(ちょうよう)の節句を迎えます。今年は10月17日がその日に当たります。現行の暦の太陽暦9月9日だと、実は菊の花にはちょっと早すぎるのです。旧暦9月9日くらいに花の盛りを迎えます。ふたつ前の投稿でも書きましたが、重陽の節句は別名、菊の節句。菊は薬草としても使われていて、延寿の力を持つものとされていたため、厄祓いや長寿祈願に用いられていたそうです。重陽の節句では、前日に菊の花に綿を被せておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできる「被せ綿(きせわた)」という風習がありましたが、菊の花が盛りを迎えるタイミングで朝露が現れ始めるという流れから、この風習が生まれたのではないかと思います。今の日本では現行の太陽暦が基本となっていますが、そこに旧暦と旧暦以前の暦の行事が混在しているので、たとえば七夕や旧正月のように昔の暦で祝う風習が残っているものもあります。言ってしまえば、太陽暦と旧暦と、旧暦以前の暦の3つが混在しているのが今の日本の暦というわけです。実際に肌で感じた季節感と現行の暦に違和感を感じても、旧暦に置き換えてみたらしっくりと来た…なんてことが意外とあると思います。カレンダーを見て頭で季節を感じるよりも、自分の肌で感じた空気感や季節感を優先してみてください。

バランスを意識する天秤の季節。

Naoyaです。今日は二十四節気の16番目、秋分です。そして、今日から風のエレメントの星座、天秤座のシーズンです。天秤座の自分にとっては、我が家に帰ってきたような安心感のある時期です。秋分は春分と同じく、太陽が真東から昇り真西へと沈んで、昼と夜の長さが一緒になります。陰と陽がちょうど半分のバランスになるときです。秋分を中心とした7日間は秋の彼岸となります。仏教では西という方角は、極楽浄土があるとされている方向とされているため、春と秋の彼岸に極楽往生を願った仏事が執り行われるのだそうです。彼岸とは川や海の向こう岸という意味。煩悩だらけの「この世」で修行を経て悟りを得て、「あの世」という向こう岸へと辿り着くというわけです。昼と夜とか。「この世」と「あの世」とか。あるいは、暑さと涼しさとか。この時期に二極のバランスやコントラストを無自覚に意識させられるのが、相対的思考の天秤座の季節というのがユニークです。天秤座の守護星は金星で、牡牛座も同じく金星です。金星が司っているので、牡牛座も天秤座も美意識が高いと言われますが、牡牛座の美とは、自分が美しいと思ったものが一番美しいという「絶対的な美」で、天秤座の美とは、他者の美とのバランスから自分の美を見出す「相対的な美」です。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、まさに暑さも落ち着く頃。秋の草花も見頃になってきています。曼珠沙華、別名「彼岸花」の燃えるような赤に心奪われたあり、竜胆(りんどう)の青みがかった紫に安らぎを感じたり、菊の造形美に好奇心を掻き立てられたり、どこからともなく香ってくる金木犀の香りにハッとしたり、秋はさまざまな感覚で楽しませてくれる花がいろいろあります。ちなみに曼珠沙華は英語で "spider lily" と言います。蜘蛛の百合。確かに形が蜘蛛っぽいですよね。秋にも春同様、七草があります。春の七草はお粥にして食べて、無病息災を祈るものですが、秋の七草は鑑賞して楽しむものです。薬として使われていたものもあり、日本人にゆかりや親しみのある草花が選ばれていますが、春の七草のようにすべての草花を取り揃えて、何かをするというわけではありません。秋の七草は以下の通りです。*萩(はぎ) くさかんむりに秋と書く花。秋の彼岸にお供えする「おはぎ」の名前の由来。*尾花(おばな) ススキの別名。ススキの穂が動物の尻尾に似ていることが由来。*葛(くず) 葛餅や葛湯、葛切りの原料。根を乾燥させた葛根は、漢方薬としてもお馴染み。*撫子(なでしこ) 清楚な日本女性を表現する「大和撫子」は、この花が由来。*女郎花(おみなえし) 名前の由来は、花の美しさが美女を圧倒するということから。漢方薬としても使用。*藤袴(ふじばかま) 花の色が淡紫色で、弁の形が筒状で袴に似ていることが名前の由来。*桔梗(ききょう) 多くの武将の家紋に用いられた花。根を乾燥させて漢方薬としても使用。秋の七草は春の七草と比べると、あまり馴染みがないと思います。だから、秋の七草が何かを知らないという人のが多いと思います。秋の七草の覚え方は2通りあります。ひとつ目は、五・七・五・七のリズムで覚える方法。「ハギ・キキョウ クズ・フジバカマ オミナエシ オバナ・ナデシコ」この並びでリズムよく、何度も繰り返して覚えるのです。春の七草もこのリズムで覚えるやり方です。そしてもうひとつの方法は、「お好きな服は?」=「お・す・き・な・ふ・く・は」という語呂で覚える方法です。これは、お=オミナエシす=ススキき=キキョウな=ナデシコふ=フジバカマく=クズは=ハギというそれぞれの草花の頭文字を繋いだものです。頭で覚えるよりも、実際にその草花に触れた方が覚えやすいと思います。現在は絶滅危惧種に指定されていて、野生で見ることのできないものもありますが、機会があったらぜひ実物に触れてみてください。立秋を過ぎて秋分を迎えて、秋が深まってきています。秋が深まってくるということは、冬がどんどん近づいてきているということを意味します。秋分で昼と夜の長さが同じになって、そこからさらに日没が早くなり、昼が短く夜が長くなっていきます。夏の暑さから解放されて、穏やかで過ごしやすい季節やっとやって来たことを実感する日々。この安堵感も徐々に自分の元から旅立っていき、寒くなっていくと思うとちょっと寂しくもあります。日本の四季というものは、喜びに満ちて迎え入れることと名残り惜しく見送ることの繰り返しなのです。リビングに竜胆と菊を飾りました。通りがかりの店で見つけた秋らしい組み合わせ。秋はおいしい旬の食材もたくさんあるので、ごはんがおいしい季節でもあります。夏の暑さで消耗したエネルギーを、穏やかな気候の中でリカヴァーして、自分にとってのベストな心身のバランスを回復させましょう。

儚さを生きてこそ永遠に触れる。

Naoyaです。今日は二十四節気の15番目、白露(はくろ)です。白露とは、夜の間に大気中の水蒸気が冷却されて、朝、草や葉に白い露が結ぶことから名づけられたと言われています。露が「結ぶ」という言い方、とても日本的な風情がありますね。露は他にも「置く」「消ゆ」「散る」「乱る」といったいろんな動詞を伴って、多彩な表現に用いられます。陽が射してくると徐々に蒸発して消えてなくなり、揺れてしまえば一瞬にして落ちてなくなる。露は儚い存在です。朝露が輝く風景は、ほんの束の間。まだ誰も触れていない朝にしか出会えないものです。そろそろ野には薄(すすき)の穂が姿を現して、空は高くなっていき、日中はまだ暑い日もありますが、朝夕は涼しさを通り越して肌寒さを感じるときもあるでしょう。うちの近所は森に隣接しているせいもあり、夜、窓を開けると虫の声の大合唱が微かに聞こえてきます。あぁ、秋だなぁと実感するひとときです。二十四節気には、雪や雨、露、霜という名称が使われていることや、二十四節気には登場しないものの、夏は湿度がとても高いので、日本の四季は寒暖を問わず、水とのゆかりが深いことがうかがえるかと思います。今の時期は台風のシーズンです。今年は例年よりも台風が多く、豪雨による被害が出ているエリアもあります。水は生命を支えて育むものですが、その反面、人の命を脅かす側面もあることを改めて痛感しています。被害に遭われた方々は、1日も早く復旧できますよう心よりお祈り申し上げます。明日9月9日は、重陽(ちょうよう)の節句です。現代ではあまり馴染みがありませんが、旧暦時代に中国から伝わった五節句があって、重陽の節句はそのひとつ。他は1月7日の人日(じんじつ)の節句、3月3日の上巳(じょうし)の節句、つまり桃の節句の雛祭り、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句です。一番大きな陽数(ようすう)である9が重なる日を重陽の節句と定めて、不老長寿や繁栄を願う行事とされていました。重陽の節句は別名、菊の節句。菊は薬草としても使われていて、延寿の力を持つものとされていたため、厄祓いや長寿祈願に用いられていたそうです。これからの時期、菊のコンクールが開催される地区もたくさんあると思いますが、育てた菊を持ち寄って優劣を競う「菊合わせ」という風習が元になっているのだとか。近所の神社でも、毎秋必ず立派な菊が披露される催しが開かれています。かつて重陽の節句では、菊の花びらを浮かべたお酒や菊を漬け込んだ「菊酒」を呑んだり、菊を詰めた枕で眠り、菊の香りで邪気を祓う「菊枕」などがあったそうです。重陽の節句では、前の日に菊の花に綿を被せておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできるとされる「被せ綿(きせわた)」という風習もあったそうです。ここでも露が登場するのですが、露は儚いものの象徴である反面、不老長寿や極楽往生の喩えとしても使われているのが興味深いです。諸行無常。この世のすべての物事は同じ形を留めず、常に変化し続けていきますが、変化は表面的な部分で起きていることであって、もっと奥深いところには不変なものが存在すると思っています。変わりゆく儚い世界を懸命に生きていればこそ、永遠とはいかなるものなのかに触れることができる扉が、ある日、目の前で開きます。つい先日、とある私的な出来事を通じて、僕のその扉が開いたところでした。僕の中では、儚さと永遠は背中合わせというか、同質なものに感じるのです。…なんて、ふと思った秋の夜。

柔らかなピリオド。

Naoyaです。今日は二十四節気の14番目、処暑です。そして、今日から乙女座のシーズンへ突入となりました。処暑の処という字は「留まる、止まる」という意味で、ようやく暑さが和らいで収まってくる頃というのが処暑です。いつまでも落ちない夏の長い夕暮れも、夏至を境に少しずつ短くなってきています。日本人特有の夏の終わりの寂しさは、子どもの頃に散々味わった夏休みの終わりのあの寂しさや名残り惜しさが、大人になってもそのまま踏襲されているようにも思えます。先日、うちの近くの国道沿いにあるコーヒーショップへ、読書をするために自転車で出かけたときのことでした。コーヒーショップへは丘を越えて行かなくてはならないので、丘のてっぺん近くまでの上り坂で自転車を押していました。午後3時過ぎだったので、陽射しはまだ強くて汗ばんできていたものの、風はどこか涼しさを感じさせていました。帰りの日没寸前の時間帯はさらに暑さが和らいで、空には秋らしい雲が浮かんでいました。立秋の頃はまだ夏からバトンタッチしたばかりで、まるで行く夏からの餞(はなむけ)のような夏めいた暑さが残っていました。立秋過ぎてもまだ残る暑さのことを「餞暑(せんしょ)」というそうですが、その暑さもお盆を終わりを迎える頃には、だいぶ和らいで過ごしやすくなってきています。そんな陽射しと涼しげな風の中で自転車を漕いでいたら、昔、屋外プールに通いまくっていた夏のことが不意に過ぎりました。若い頃の僕はプールに通って泳ぎまくっていたのですが、夏の週末は朝っぱらから午後の陽射しが翳り始める時間帯まで、ずっと屋外のプールで過ごしていました。プール開きの頃はまだ水が透明で冷たくて、陽射しも初々しくてエッジが立った感じ。夏らしさもまだぎこちないですが、夏のピークの頃には陽射しがすっかり円熟して強くなって、プールの水も陽射しの強さや多くなってきた人手のせいでだいぶ温んでいます。プールサイドはかなり熱くなっていて、素足で歩くのが大変です。僕はプールサイドに場所を取り、横になって日焼けをしつつ、熱くなるとしばらく泳いで、そしてまた日焼けをして、泳いで…を繰り返していました。強い紫外線を長時間浴びて過ごすなんて、今じゃ恐ろしくて絶対にできません。8月も半ばに差し掛かり、ちょうど今ぐらいのお盆を過ぎたシーズンになってくると、プールサイドに吹く風が、時折涼しくて肌寒く感じるようになってきます。眩しい陽射しを浴びながら、ふと吹いてくる風に肌寒さを感じるとき。ちょっと大きめのバスタオルを肩から纏って体を包んでプールの方に目をやってみると、どこからともなく現れたトンボが水面を掠めながら飛んでいきます。それを目にすると、屋外プールのシーズンも終わりなんだなぁと感じるのです。散々熱っぽかった夏に、ピリオドがふわっと柔らかく打たれるような瞬間です。若い頃は二十四節気のことなど、さほど意識していませんでしたが、思い返してみると初夏の頃から晩夏の頃まで、夏という季節の微細な移ろいをプールサイドで、肌や目、匂いや音で毎年感じていたわけです。それは感覚的で、ちょっと動物っぽくもあります。今年の夏は暑さがかなり厳し過ぎて、夏を楽しむ余裕がなかったという人もいるかもしれません。これからの時期、まだ暑さがぶり返す日もありそうですが、季節はどんどん秋へと向かってだいぶ過ごしやすくなっていくと思います。ぜひ、感傷的な夏の終わりと深まっていく秋とのグラデーションを味わってみてください。

暦の秋。

Naoyaです。今日は二十四節気の13番目、立秋です。二十四節気も後半へ突入して、暦の上では秋になりました。実感としてはまだ夏ですが、そんな夏の中に秋の気配を見つけることもあれば、これから徐々に秋へと移り変わっていく中で、行く夏を名残り惜しむようになっていきます。今年の夏は猛暑の地域も多いので、穏やかな秋が待ち遠しいという人も多いかとは思いますが。でも、陽射しは確実に和らいできています。ちょっと思い出してみてください。7月の最初の頃の陽射しはもっとエッジが効いていて、鋭く突き刺さる感じだったと思います。下ろし立ての真っ白いシャツに、初めて袖を通すようなパリッとした感触にも似ていると思います。今の陽射しは熱いものの、鋭さがなくなって丸みを帯びてきた感じ。だいぶ着こなして馴染んだシャツのように思えます。昼間は暑いけれど、夕方や夜の空気は秋めいている日もどんどん増えていくと思います。空のトーンや雲もいつしか秋めいていくでしょう。春夏秋冬、季節ごとの特徴が明確な日本。二十四節気で区分けされた暦が季節の移ろいのガイドになっています。その季節のピークが過ぎたあたりから、次の季節の気配を徐々に感じ始めたとき、次を探っていく楽しさがあります。特に季節と季節の境目の時期は、待ち遠しさと名残り惜しさが交差して、気持ちが入り混じる独特なタイミング。これからの時期は、暑さも徐々に和らいでいくと思います。秋の気配を見つけながら、移ろう季節を感じてみてください。忙しく時間に追われていると、季節の移ろいを落ち着いて味わうことはなかなか難しいです。ちょっと心に余裕を持つ時間をつくって、そのときの空気感を肌で感じてみてください。今年は桜の開花も梅雨明けも例年よりはかなり早かったですが、そういうものは暦で計り切ることができないものです。いつもとは逆のコースを辿った先日の台風を見ていて、大いなる自然や地球、そして宇宙の流れは人間がコントロールできるものではなくて、予想を軽々と裏切ることもあるんだなと改めて思いました。同じ時期に同じようなことが起こると思い込んでいるのは、人間の勝手な都合や解釈なだけです。同じ時期に同じようなことが起きているようで、実は微妙な変化もあるわけです。大きな変化でないと、なかなか気づきにくいんだと思います。暦はあくまでも参考程度に捉えて、そのときの季節感や空気感から何を感じるのかを大切にしてみてください。8月15日はお盆です。7月15日のお盆に対して旧盆という言い方をしますが、正確に言うならば「月遅れのお盆」です。これは旧暦か新暦かを採用するかの違い。一般的に多くの企業などでは8月15日前後を採用するところが多いですが、お盆は元々、旧暦の7月15日に行われていました。でも、新暦の7月15日あたりの時期は真夏で、農作業の人たちにとっては田んぼの草取りで忙しかったりもする。なので、「月遅れのお盆」という形になったのだそうです。今の時期、旧暦の七夕の飾りつけやお祭りをやっているところもありますが、2018年は8月17日が伝統的七夕です。今の暦の七夕は毎年必ず7月7日ですが、伝統的七夕は旧暦以前の日本の太古の暦がベースになっていて、その年によって変わります。二十四節気の処暑(立秋の次の節気)以前で、一番近い新月の日を1日目(7月1日)として7日目を七夕と定めるそうです。新月から7日目ということで、月の形は上弦に近い状態になります。今の暦だと、七夕の時期はほとんど梅雨空で雨ということも多いですが、伝統的七夕のあたりは梅雨が明けて晴れていることも多く、伝統的七夕の夜は、織姫星がほぼ頭上の真上にあり、彦星も高く上がります。そしてその間には天の川が横断しています。空気が澄んだ場所でないと、なかなかわかりづらいとは思いますが。やはり旧暦や旧暦が導入される前の日本の太古の暦で数えた方が、しっくりとくるものや納得できるものは多いです。旧暦を意識してみると、意外な発見があるかもしれません。

滴りや滝に涼を求めて。

Naoyaです。今日は二十四節気の12番目、大暑(たいしょ)です。暑さがピークを迎える時期と言われていて、二十四節気はここで前半が終了です。大暑は十二星座の獅子座の始まり。火の星座の季節が到来です。いやぁ、それにしても毎日異常なくらい暑いです。関東は例年よりも早く梅雨明けが発表され、大暑を迎える前からすでに暑さのピークが連日続いています。子どもの頃の夏って、こんな暑さじゃなかったと思うんですけどね。紫外線も強くなっているみたいで、すぐに肌が黒くなってしまいます。先日の豪雨で被災されている方にとっては大変厳しい暑さかと思いますが、一刻も早く、平穏な日常の生活を取り戻せますよう心よりお祈りいたします。大暑ということで、向日葵のヴィジュアルをいろいろと選んでいたのですが、暑さが和らぐ涼しいヴィジュアルと話題にすることにしました。「涼を求める」とか「避暑」という言葉は「暑さ対策」という言葉よりも、僕は風情や味わい深さを感じます。単純にエアコンを使った涼しさとはまた違った風流なニュアンス。打ち水や風鈴など、昔から日本人は日常において、夏の暑さをしのぐための工夫に長けていました。特に打ち水は見た目だけでなく、水を打つ音を耳で感じ、焼けた土や石畳から蒸発する水の独特の匂いを鼻や口で感じ、体感温度が下がる感覚を肌で感じるので、五感すべてで涼を感じることができます。涼を求めることも避暑も、いろんな意味で余裕がないとできないものだと最近思っています。心の余裕や精神的な余裕、時間の余裕、そしてさまざまな物理的余裕。「打ち水くらいじゃ涼しくなるわけがない」「避暑のために出かける時間なんてないし、お金もない」そんな辛辣な意見すら飛び出し兼ねない、今の世の中の流れ。余裕のなさが暑さに拍車をかけてしまうようにも感じます。暑い季節をバランスよく乗り越えるためには、さまざまな余裕やゆとりが必要なのではないでしょうか。それはさておき。俳句の本を見ていたら、滴り(したたり)や滝という言葉が夏の季語だということを目にしました。滴りとは、山の日陰の岩や苔を細く糸のように伝って落ちている水のことを言います。東京都世田谷区の等々力に、等々力渓谷という23区内で唯一の渓谷があるのですが、都心にいるのを忘れてしまうほど静かな場所。東急大井町線の等々力駅から歩くとすぐに出現します。等々力渓谷では30箇所を超える場所で湧水が確認されていますが、そこに等々力不動尊発祥の元になった不動の滝があります。滝という名前がついているものの落差は大きくなくて、苔の生えた岩肌の滝口から糸のように細い湧き水が途絶えることなく流れています。どちらかというと滴り寄りな水量や規模感ですが、でもそれが滝と呼ばれていることに深い意味を感じます。滝の水音が轟いて、等々力という地名になったという説もあるらしいです。ちなみにこの滝は現在も、修行として滝行に用いられているそうです。熊野に行くと、滝がいろんなところにあります。雨が降った後、普段は何もない場所に名前もない滝が出現しているなんていうことも多々。熊野で僕が大好きな滝は、玉置山の麓にある猫又の滝、大馬神社の境内奥にある禊の滝、十津川村の車道沿いにある十二滝、そして有名な那智の滝です。那智の滝は毎秒約1トンもの水が高さ133mのところから流れていて、滝壷は10mという日本一落差のある滝。落ちる水をずっと眺めていると、まるで滝壷めがけて何頭もの龍たちが飛び込んでいるように見えてきます。とても不思議な感覚です。滝(瀧)という字は、どうして氵(さんずい)に竜(龍)と書くのかは、那智の滝の落水を見ていると納得できます。アイスランドは滝が多い国ですが、Instagramでアイスランドの滝をチェックしていると、かなりのスケール感のものが多くて興味津々です。日本の滝ともまたひと味違う印象があります。日本では御神体として祀られている滝もありますが、アイスランドではそういう意味づけで滝を捉えないのかと思っていたら、ゴーザフォス Goðafoss というアイスランド語で「神々の滝」という意味を持つ滝もあるのだそう。荘厳な滝はやはり、神が宿っている印象を人に与えるのでしょう。アイスランドの滝巡りは僕の夢のひとつです。まだまだ暑さは続きそうですが、無理をせずに過ごしてください。心身がダウンしないようにちょっと頭を休めて、生活に少し余裕やゆとりを持たせるといいと思います。涼を求めて滝やせせらぎのある自然に囲まれた場所へ、出向いてみるのもいいかもしれません。

暑中お見舞い申し上げます。

Naoyaです。今日は二十四節気の11番目、小暑(しょうしょ)です。そろそろ梅雨が明けて、暑さが本格的になる頃と言われていますが、関東はすでに梅雨が明けていて、すっかり本格的に暑い日々が続いています。今年は桜の開花もそうですし、さまざまな季節のタイミングが例年よりも早い気がします。日本の夏は単に気温が高いだけでなく、湿気がかなり高いため蒸し暑くなります。暑さが肌にまとわりつく感じ。体感温度が高く感じます。冷房に頼るだけでなく、涼しくなる工夫をいろいろとしたいところですね。小暑もしくは大暑から立秋までの間が暑中で、暑中見舞いはこの期間内に送ります。この頃は暑中見舞いを送り合うこともなくなってしまいましたが、知人から暑中見舞いがふと届いたりすると、風流な気持ちになってちょっと嬉しいものです。小暑は7月7日頃とされていますが、今年はまさに7月7日、七夕です。七夕は五節句のひとつです。牽牛星と職女星が一年に一度出会うという伝説や、手芸や裁縫などが上達するように、牽牛星と職女星を祀って祈念するという、中国で生まれたものが日本に伝わって広まったと言われています。ブラジルのサンパウロでは七夕祭りが毎年開催されるそうで、そのまま「tanabata」という呼び名なのだそう。ブラジルは世界一日系移民の多い国で、日本人が住んでいる地区では、日本の文化や風習が受け継がれているのだとか。ブラジルの「tanabata」には、毎年10万人以上が参加するそうです。七夕は本来、旧暦の7月7日、太陽暦でいうと8月初めの初秋の行事とされています。今年は8月17日が旧暦七夕に当たります。現在は太陽暦の7月7日に行うところが多いですが、この時期はほとんどが梅雨のため、星空を見ることが難しいです。今年は梅雨が明けているので、星空が期待できるかと思ったのですが、どうやらこの週末は天気が悪そうです。豪雨のため避難指示が出ているエリアも多いので、気をつけてお過ごしください。今の時期はちょうど、蓮の花が見頃です。東京だと上野の不忍池が蓮の名所。僕も見に行ったことがありますが、背景に見える高いビル群と池から生い茂る蓮たちとのコントラストが何とも不思議。極楽浄土のようにも思えます。あとは、明治神宮でも咲いていたような気がします。そんな看板を以前見かけた気がします。うろ覚えですが。蓮の花は早い時間帯に咲くので、朝の早い時間に観に行った方がいいでしょう。蓮の花は仏教において神聖な花とされています。古代中国では「俗に染まらない君子の花」とされているそう。中国には蓮の花を示す色の名や葉の色を示す色の名もありますし、英語ではロータス・ピンク(lotus pink)という色の名前もありますが、日本では「万葉集」で蓮が詠まれた歌が4首(そのうち3首は蓮の葉を詠んだ歌)あるものの、色の名前になることはありませんでした。個人的には蓮のあの絶妙なピンクが大好きです。京都はちょうど祇園祭の真っ最中。7月1日から1か月間に渡って執り行われる長いお祭です。祇園祭は八坂神社(祇園社)の祭礼で、貞観(9世紀)より続いている京都の夏の風物詩。祇園祭の時期はかなり混み合うので、その時期の京都に行かないように避けていたのですが、数年前に一度だけ、仕事のスケジュールの都合で祇園祭の最終日に前乗りで行ったことがあります。お祭りの余韻が漂った京都の街を歩きながら、本当にここは季節を肌で感じられる場所なんだなぁ、と改めて思いました。今年は桜の開花や梅雨明けが早いので、秋の訪れも早いのかなと勝手に思っているところ。小暑の終わり頃に夏の土用に入ります。自分が思う以上に汗をかくので、室内にいたとしても脱水症状を起こすこともあります。こまめに水分補給しておきましょう。

雨雲の果てに夏至の光。

Naoyaです。今日は二十四節気の10番目、夏至です。夏の中心に当たる節気。北半球では日の出から日の入りまでの昼の時間が一年でもっとも長く、太陽が一番空高く昇り、陽のエネルギーがもっとも高まる日です。夏至は十二星座の蟹座の始まりでもあります。蟹座は水のエレメントの星座。そして今、日本は梅雨で、しっとりと雨雲に覆われたシーズンの真っ只中です。冬至の翌日から徐々に延びてきた日も夏至でピークを迎えて、明日からはまた徐々に短くなっていきます。日本はこれからもっと暑くなり、夏の本番はこれからという感じですが、日の長さはどんどん短くなって、陽のエネルギーは弱まっていくのです。ちょっと寂しいです。さまざまな夏至祭が世界各国で執り行われますが、ヨーロッパでは全体的に以下のような特徴があるそうです。お祭りが執り行われるのは夏至か聖ヨハネの日(6月24日)のあたり。薬草や朝露を神聖なものとして崇める。花や葉で冠をつくって一年の健康を祈り、祭りの後に川へ流して将来を占う。焚き火を焚く。男女の縁結び、占い。夏至前夜に摘んだ薬草には特別な効果があると言われ、セイヨウオトギリ草(セントジョーンズワート。精神安定や不眠に効果がある薬草)を夜、枕の下に入れて眠ると夢の中に聖人が現れて、ご加護があるとも言われているそう。イギリスのストーンヘンジでは有名な夏至のお祭りが執り行われますが、あれはドルイド教の男性神と女性神の出会いを祝うものとされています。ギリシア北部では未婚の女性が無花果(イチジク)の木の下に自分の持ちものを置くと、夏至の魔法で将来の夫の夢を見るという言い伝えがあるそうですが、日本の尾張地方では無花果の田楽を食べる風習があるそうです。無花果は夏至と何かしらの関係があるのかもしれません。フィンランドだと無花果ではなく、古いリンゴの木の下に座ると未来が見える…みたいな風習なのだそう。ラトビアでは菖蒲の茎で来客を叩くとか、日本と同様に菖蒲湯のようにお風呂に入れたり、枕の下に入れたりするのだとか。国によって風習が微妙に違うので、調べてみると面白いです。西洋では夏至を境に日が短くなっていき、夜がどんどん長くなっていくため、悪い霊が歩き回るとも信じられているようです。昔の人にとって夏至は、どこか神秘的な超自然現象だったからこそ、そんな言い伝えが生まれたのでしょう。日本での夏至は冬至と比べて、あまり盛り上がりを見せません。夏至の祭事や行事をやるところもありますが、西洋ほど大々的なお祭りはありません。その原因は夏至が梅雨の真っ最中なので、光や陽のエネルギーを感じにくいことかもしれません。あと、日本は冬の間でも、北欧ほど日照時間が短くないことも理由だと思います。天照大御神(アマテラスオオミカミ)という太陽神が国民の総氏神として祀られ、日出ずる国という考えの元に日の出の太陽を象徴した国旗を掲げる国だからこそ、常に太陽が身近に存在するという意識があるからなのかもしれません。日本では夏至が過ぎた6月末に「夏越の祓(なごしのはらえ)」という伝統行事があります。旧暦のときは6月に、新暦に移った今も6月末頃に日本各地の神社で執り行われる行事です。これは半年に一度の厄落としとして、12月末の「年越の祓」と対になっているもので、心身を清めて、また新しい半年を過ごすための大切な神事です。千萱(ちがや)という草で編んだ大きな輪をくぐって厄落としをする「茅の輪くぐり」や、人の形をした白い紙「人形(ひとがた)」に名前や年齢などを書いて、それで体を撫でて罪や穢れを移して、身代わりとして神社に納め、川に流したりお焚き上げをするなどして、心身の穢れを祓う「大祓(おおはらえ)」という神事を行います。昔の日本では夏の夜が短いさまを「短夜(みじかよ)」と言って、夏の夜の逢瀬の短さを嘆いた歌が詠まれていました。西洋の夏至は日の長さを喜ぶものの、日本では夜の短さを嘆くというのも、日頃から太陽の恩恵を当たり前のように受けられる国だからこその発想なのでしょう。夏至。日本は梅雨の真っ最中で、天気がスッキリとしにくいですが、陽のエネルギーがもっとも強い日であることには変わりありません。雨雲の果ての光の存在を感じてみてくださいね。

「さ」の季節。

Naoyaです。今日は二十四節気の9番目、芒種(ぼうしゅ)です。芒とは、穀物の種子の先にある毛のことを意味して、芒種は穀物を植えるという意味です。梅雨が近づいてくる今の時期は、田植えのシーズンというわけです。旧暦だとこれからちょうど皐月(旧暦5月)を迎えるところなのですが、耕作や田の神を意味する古語の「さ」から、稲作の月ということで「さつき」になったとか、早苗を植える「早苗月」が略されて「さつき」になったという説があります。ちなみに皐月の皐という字には「神に捧げる稲」という意味があります。うちの近所に小さな水田があって、教育の一環として近所の小学生を中心に、田植えをさせるためのものらしいのですが、町内会のお知らせのボードにちょうど今年の田植えのお知らせが告知されていました。最近は機械で田植えをするところがほとんどなので、手植えの田植えができるのは貴重です。かつて知人の取材の手伝いで、手植えの田植えを一度だけ体験したことがありました。泥を手や足で触れる感覚は、都会で暮らしている人にとってはなかなか味わうことができないと思います。単なるガーデニングや土いじりとは違う感じ。まるで自分の体を使って田の神とコミュニケーションをする儀式のようにも思えます。苗を植え終わった水田は水鏡のように美しく尊い光景です。現在、すでに梅雨入りしているエリアもありますが、関東の梅雨入りはもう間もなくでしょう。実は五月雨(さみだれ)とは、梅雨の雨のことを指します。旧暦の5月の雨ということです。五月雨の「さ」も、田の神の「さ」です。田の神の恵みの水が、天から滴り落ちるという意味。そして、五月晴れとは梅雨の晴れ間のことを指すのです。日本人にとって稲は必要不可欠な存在だからこそ、「さ」の月の今の時期は、一年の中でも重要なタイミングと言えるでしょう。気づいたら、街のあちこちには紫陽花が咲いています。純白のものもあれば、ほんのり緑色のものもあるし、マジェンタに近い赤もあれば、濃厚なブルーから水彩画のような淡い水色もある。あるいは、濃い紫や薄い紫もあって、色の美しさにハッとさせられます。でも、あの花びらのような部分は花びらではなくて「がく」に当たり、実際の花は中央にあるとても小さな部分なんです。紫陽花という表記はもちろん当て字。かつて「あづさゐ(あぢさゐ)」と言われていて、「あづ(あぢ)」は小さなものが集合した様子を意味して、「さゐ」は真藍(さあい)という意味。つまり、小さな青い花の集まりというのが語源なのだそうです。ちなみに、紫陽花の学名はhydrangea。西洋アジサイのことを「ハイドランジア」と表記されることも最近は目にすることも多いですが、実はこのハイドランジアとはギリシャ語が語源で、水の容器という意味になります。紫陽花はたくさん水を吸うというのがhydrangeaの由来です。5月に熊野へ行ったとき、大峯山の登山は大雨でした。レインコートを羽織って、雨を肌で受けながらの登山。普段の生活では濡れないようにする雨を自分の体すべてで感じて、まるで雨と一体化するかのような時間になりましたが、いらないものや穢れを洗い流す禊のようにも思えました。翌朝の下山は雨がやんでいましたが、かなり霧が深く、山道が川やせせらぎのようになっていたり、普段はない山肌に滝ができていたりして、気づくと水というものを強く意識させられている自分がいました。雨は降らなければ降らないで水不足になってしまうし、降りすぎてしまうと災害に繋がることもあります。水は命を支えるものでもあるし、奪うものでもあるという、真逆の要素を持っているものなんだと、改めて実感しました。流れているときは順調で、滞るとたちまち濁りを生んで、腐敗してしまうこともある。それが水というものなのです。梅雨の時期、雨が多くて嫌な気持ちになりがちです。そんなときこそ、鬱々としたものや負の要素を抱えてしまわず、さらりと流せる柔軟さが大切です。自分の中にある水の要素を意識して、滞らせることなくスムーズに流して過ごしたいですね。

ちょっと満ち足りる時間。

Naoyaです。今日は二十四節気の8番目、小満(しょうまん)です。ますます陽気がよくなってきて、万物が次第に成長して天地に満ち始める頃。そこかしこの草木もどんどん成長していますね。小満は十二星座の双子座の始まりでもあります。双子座は風の星座。心地いい風が新緑を吹き抜けていく。まさにそんな季節です。小満という二十四節気、あまり馴染みがないという人も多いと思います。小満という名の由来には、秋に蒔いた穀物の種が穂をつけ始めるのを見て、ホッとひと安心して、ちょっと気持ちが満ち足りるという説もあるそうです。二十四節気をさらに三分割にして、その季節の営みを表現した七十二候というものがあるのですが、小満の終わりの七十二候に「麦秋至(むぎのときいたる)」というのがあります。これは麦の穂が金色に熟して、収穫の時期を迎える頃という意味です。夏なのに「秋」という文字に「え?」と思う人もいるでしょうが、「秋=収穫期」というニュアンスで使われています。小満の時期は二毛作の農家にとって麦の刈り入れだったそうです。金色の麦の穂は、ヴィジュアル的に秋っぽいですけどね。実はゴールデンウィーク明けから、熊野と京都の旅に行ってきました。2年前からの恒例行事のようになっていますが、この時期の山は新緑が美しくて気候が過ごしやすく、森や山を歩くのがとても快適です。大峯山という女人禁制の山に登りました。今回で2回目。この山は冬の間は閉じているのですが、毎年5月3日に頂上の大峯山寺の本堂の扉を開ける戸開式(山開きに当たる)があり、それを終えてすぐの登山となりました。戸開式を終えたばかりの大峯山は緑が若々しく、入山している人の数もまだ多くないせいか、初々しい空気感が漂っていました。道のりは長かったですが、とても気持ちよかったです。今回の熊野では、奥熊野と呼ばれるディープなエリアに1泊しました。周りには山と緑しかなくて、ケータイの電波も一切届かないエリア。デジタルをすべて放棄して、自分も自然の一部になるような時間を過ごしました。夜中にふと目が覚めて外に出てみたら、満天の星空を見ることができました。あまりに星が多過ぎて、少し怖くなるくらいでした。大丹倉(おおにぐら)という刀鍛冶発祥の地で、大きな大きな岩場のある場所に早朝から出向き、その岩の上でゆっくりと時間を過ごしました。瞑想をしたり、両手を広げて深呼吸してみたり、見晴らしのいい景色を見回したり。新緑の山々に囲まれた絶景が一望できて、遠くの山の合間には雲海が立ち込めていて、光の加減で雲に虹彩がほんのり浮かび上がっていました。そして、足元の大丹倉のゴツゴツとした岩の感じは、まるで宇宙の隕石のような感じ。そんな光景を眺めていたら、まさに森羅万象という言葉がぴったりだと思えてきました。小満の時期の俳句の季語には、青嵐や万緑、若楓、葉桜、柿若葉など、新緑に関連したものがとても多いです。目にする、耳にするだけでも、初々しい緑が思い浮かぶような言葉たち。そんな新緑に触れるために、ちょこっと遠出してみるのもいいと思います。近くの緑の多い場所を散歩するのでもいいですが、時間をつくって少しだけ遠出して、自然に触れてみると心身がスッとリセットされると思います。季節の移ろいは頭で考えて捉えるよりも、五感を使って捉えることを優先してみてください。肌感や体感で何をどう感じるのか。そこを意識してみましょう。意外な発見があるかもしれません。光がますます満ち溢れ、草木の緑が鮮やかな時期。そんな空気感に身も心もゆだねてみて、自分がちょっと満ち足りる時間をつくってみてください。