maribrengael708

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やがて旅は終わりを迎える。

Naoyaです。二十四節気は今日で最後の24番目の節気、大寒を迎えました。文字通り、一年でもっとも寒い時期。季節の果て、冬のピーク。日本の季節の移ろいの旅も最終章となりました。そして、水瓶座のシーズンのスタートです。昨年の1月末からオウンドメディア「森羅万象の聲」をスタートさせましたが、一年前の二十四節気の大寒の日にプレオープンということで、僕がひとつ記事を投稿しました。あれからちょうど一年が経ちました。数日前の夕方前、うちの近所を歩きながらぼんやりと空の色を眺めていました。ブルーから徐々にピンクがかったオレンジ色へのグラデーション。何気に眺めていたのは、ちょうど日没の方角の西の空でした。そのときの空の色や光の加減、漂う空気に一瞬だけ春めいたものを感じました。もちろん暦の上ではまだ春ではないですし、かなり寒かったのですが、明らかに暗闇の季節のピークは過ぎていて、ほのかに春の気配が過ぎったのです。昨年12月の京都滞在のとき。お世話になっているセラピストの先生と話していたら、感覚的な判断が大切だという話題になり、頭で理解しようとしていたり、詰め込んだ知識だけで判断しようとするばかりだと、正しい判断はできなくなるという話になりました。たとえば、どんなに知識や情報を詰め込んだ人であったとしても、頭でしか理解できていないと、頭で考えたことや知識の枠に自分の感覚をはめ込んで判断しようとしてしまい、感覚はどんどん鈍っていき、やがて使えなくなっていくというわけです。感覚的に「こうだ!」と自分がキャッチしたことがあったとしても、それが詰め込んだ知識や収集した情報とはちょっと違っている場合、自分の感覚に自信が持てなくて頭で考えてしまうでしょう。そして、自分の感覚を信じずに「正しくない」という判断を下すのです。もしくは、知識や情報ばかり先行してしまうと、後追いで自分の感覚的なものをそこにはめ込まなくてはいけない…という感じになるかもしれません。現代の日本人はそういう傾向の人が多いです。暦というものはあくまでも季節の進行を把握するための目安であって、季節というものはその目安だけに収められない領域で移ろっていると感じています。もしかしたら、すでに僕が春の気配を感じていても、まだまだ寒くて春っぽさなんてないという人がいるかもしれません。あるいは僕と同じように感じている人もいるかもしれません。どれが間違いで、どれが正解でということもありません。この「森羅万象の聲」は、季節の移ろいや天体の動きのようなつかみどころのない「大いなるもの」の中から、言葉にすらなっていないものをつかみ取って言語化している場です。それぞれがそれぞれの肌感や嗅覚、視覚で季節の移ろいを感じるインスパイアが生まれたらいいなと思っています。自分の感覚を信頼することはとても大切です。ただし、ひとりよがりにならないように注意しなければいけません。ひとりよがりの感覚は、現実と乖離した自分だけの妄想や思い込み、あるいはファンタジーになってしまいます。主観と客観のバランスが必要です。大寒を迎えて、立春の前日の節分までで二十四節気が一巡となります。こうして季節を巡る旅がまたひとつ終わりを迎えます。そして、立春からまた新しい旅が始まっていくのです。この「森羅万象の聲」は当初、二十四節気の一巡で終わらせようと考えていたのですが、また新たな気持ちで続けていこうと思います。何気なく過ごしている日々も、ちょっとした季節の変化の積み重ねです。これから春に向けて、いろんな変化を触れることができます。自分の感覚で微細な変化をキャッチしてみてください。

凛と、寒く。

Naoyaです。晴れて2019年を迎えました。皆さん、あけましておめでとうございます。明日は二十四節気の23番目、小寒です。「寒の入り」と言われるタイミングです。小寒から立春の前日までのひと月を「寒の内」と呼び、これから一年でもっとも寒い時期へ突入です。二十四節気も次の大寒でいよいよラストとなります。お正月。たまに行くおでん屋さんに寄ってみたら、お屠蘇を振る舞ってもらったのですが、某有名医大の常連客がくれたという「お屠蘇キット」を漬け込んだものだそう。その医大が漢方に使う生薬をお屠蘇用に調合しているそうです。屠蘇の「屠」は邪気を払うという意味で、「蘇」は魂を目覚め蘇らせるという意味があり、お屠蘇とは長寿を願うための祝い酒です。医療のフィールドで、邪気払いや長寿祈願のアイテムを真剣に調合しているという事実。医療の根底にもスピリチュアリティな要素があるんだな…と興味深く思いました。お正月の余韻もそろそろおしまい。すでに仕事始めを済ませた方もいるかと思いますが、7日から仕事始めという方が多いんじゃないかと思います。7日は七草粥を食べる習わしがあります。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろという七種の草をお粥に入れます。すずなは蕪のこと、すずしろは大根のことです。秋の七草は目で見て楽しむ草花ですが、春の七草は草の芽や根菜です。芽や根に蓄えられた生命力をいただくという風習が七草粥なのです。七草(ななくさ)は元々、「七種」と書いたのですが、これは古代中国で祝われた五つの節句のひとつで1月7日の「人日(じんじつ)」という節句の際に、七つの穀物(米、麦、小麦、大豆、小豆、粟、黍)をお粥にして食べていたことが由来。その風習が日本に渡ったとき、七つの草に置き換えられて「七草」となったそうです。ちなみに五つの節句の他の4つは、上巳(じょうし、3月3日。現在の桃の節句、雛祭りに当たる)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)です。僕個人が感じた印象なのですが、昨年末のクリスマスも年末も、年越しをして新年を迎えた今も、毎年感じているようなクリスマスのムードや年末感、お正月っぽい空気感をまったく感じていません。年越しという大きな節目が節目として機能していなくて、昨年からずっと続いている延長線上をそのまま歩いている感じがするのです。明日は山羊座新月(部分日蝕)でもあります。2019年はこの山羊座の新月で始まり、12/26の山羊座新月(金環日蝕)で終わるという一年。山羊座のヴェールで覆われたような感じの年で、一年を通じて山羊座の影響がいろいろなところで現れるんじゃないかと思われます。「宇宙詠みチャート」の解釈によれば、2018年から2020年までが山羊座をとしてひとつのパッケージになっているという印象なので、今はただの過渡期でしかないのかもしれません。クリスマスや年末、お正月っぽさが感じられないのは、もしかしたらこの影響かな…と思ったりしました。「寒の入り」ということで、これから本格的な寒さを迎えます。極まった寒さの中で触れるのは夏の暑さの厳しさとはまた違い、キリッと身が引き締まるような厳しさ。僕はこの凛とした寒さが嫌いじゃありません。日本の四季の移ろいには物語があると思っていて、寒さが極まる真冬は季節の物語のラスト。クライマックスのように感じるからです。寒いのが苦手という方はきっと多いでしょう。しっかりと防寒対策をして体調に気をつけて、これからの寒さを乗り越えましょう。

暗闇の涯、光の復活を祝う。

Naoyaです。今日は二十四節気の22番目、冬至です。そして、山羊座の季節の始まりでもあります。冬至は二十四節気の中でも多くの人に知られている節気。昼の時間が一年でもっとも短く、夜の時間がもっとも長い日。太陽の威力がもっとも弱まって、陰陽の陰のエネルギーがもっとも極まる日ですが、ここから昼の長さが徐々に延びていくタイミングでもあります。太陽が復活して光が再生していく節目、冬至。陰のエネルギーが極まったこの日を境にして、昼の時間が徐々に長くなっていくのです。ちなみに夏至は昼の時間がもっとも長く、陽のエネルギーが極まる日です。僕の中での冬至は、死と再生の境目のような日。光というものが暗闇の涯に辿り着いて、一度ここで終焉を迎えて、そこからまた新たな命を宿して蘇生していくようなイメージ。だからこそ、大きくエネルギーの動きがシフトする大切な節目だと思っています。陽のエネルギーがピークを迎えて弱まっていく夏至とは、また違ったエネルギーの動き方に思えます。世界各国でも、太陽の復活を祝うお祭りが開催されていますが、日本では柚子湯に浸かり、南瓜を食べる風習があります。柚子湯に浸かると風邪をひかないという習わしは、江戸時代から始まったものだそうで、比較的新しめ。でも、柚子湯で風邪をひかないという科学的な根拠はないらしいです。命の象徴でもある太陽の威力が弱まることは、すべての動植物にとって生命の意識が希薄になることを意味すると言ってもいいでしょう。日本では今くらいの時期、夕方17時前には真っ暗になってしまいます。暗い時間が長いため、閉塞感や孤独感を感じやすく、心身の健康のバランスを崩しやすくなる人も少なくないと思います。日本は比較的、一年を通じて太陽の恩恵を受けられている場所ですが、北欧などの冬は日照時間がかなり短くて、だからこそ、太陽の復活や光の再生という節目である冬至は、とてもめでたいものなのです。冬至が過ぎてすぐにイエス・キリストの誕生日であるクリスマスを迎えますが、実はイエスの生まれた日は定かでなかったそうで、後になってローマ教会がヨーロッパの冬至祭の頃である12月25日に設定したのだそうです。救世主の生まれた日が太陽の復活の日に重ねられたという事実、かなり腑に落ちます。個人的な話ですが、12月の初めに京都へ行ってきました。宇宙詠み Maribrengaëlさんとのコラボセッションや生配信、イベントや個人セッションなど、いろいろと計画していたプログラムをこなしつつ、自分の個人的な三つのミッションもすべて遂行しました。詳細は書きませんが、三つのミッションはバラバラに点在しているようで、根底ではしっかりと繋がっているものです。三つのミッションを遂行したおかげで、2019年に向けた課題やテーマ、過ごし方、年をまたいで持っていくもの、持っていかないものがしっかりとクリアに浮き彫りになりました。課題やテーマというものは自分自身で決めるよりも、日々やるべきことをしっかりとやっておくと、目には見えない何かから「次はこれをやっておきなさい」と託されることが多いのですが、今回はまさにそんな感じでした。そして迎えた冬至。終焉を迎えた光が徐々に再生していくように、またここから新しい意識が自分の中に灯り始めていくように思えます。

冬籠りと雪の散歩道。

Naoyaです。明日は二十四節気の21番目、大雪(たいせつ)です。大雪と言っても、東京では雪がたくさん降る時期ではありませんが、小雪から大雪へと節気が変わり、季節の移ろいというバトンが着々と受け渡されていく感じがします。草や木は枯れて街並みは色を失い、生物たちは冬籠りで姿を隠す冬。日照時間は冬至に向けてどんどん短くなっていて、今くらいだと17時前にはすっかり暗くなってしまいます。まるで寒さや暗さに閉ざされていくような時間。どこか寂しくすら感じることもあります。前回の投稿では、京都の鞍馬での雪景色の話をしましたが、実はマナカードを手にしてから始まった招かれるような旅のひとつで、宮城の松島へお邪魔したことがあります。松島はこれまでに2回、冬と夏を体験しました。招いていただいた宿は松島の岬のほとりにあって、そこの大きなパーティールームを貸切で、地元の地元の方や宿泊客の方に向けた個人セッションでした。宿の脇には散歩道があり、岬の林をしばらく歩いていくと、壮大な海を一望できる場所に辿り着けます。冬に訪れたときはちょうど雪の日でした。宿のレストランや客室からはまるで墨絵のような雪景色の凪いだ海。雪の松島は本当に美しい。極楽浄土のようにも思えました。ソーダのような鮮やかなブルーで、荒く波立っていた新島の海とはまったく違う海。夜、雪がしんしんと降っている中、屋外にある湯船に浸かりながら降る雪を見上げていました。誰もいない静かなひととき。温かなお湯と極寒の外気のコントラストが心地いい。京都だと冬でも夜はどこかに出歩くことが多いのですが、松島の宿の周りには何もないので、暖かな宿で静かに過ごしました。ボルドーカラーで統一されたシックなラウンジでひとり、おいしい日本酒を片手に大好きな本を。そのとき微かに聞こえてきたBGMは、マレーネ・ディートリッヒだったと思います。外は雪。それはまるで冬籠りをしているかのようでした。新しい楽しさや刺激を外に見つけに行くのではなく、身の周りにある備えたものや蓄えたものの中から充実感を見つけ出して味わう時間。ラウンジにたくさん置かれた本の中から、興味深いものをパラパラと眺めてみたり。こういうのが冬の楽しみなんだと思いました。翌朝は雪がやんで晴れたので、岬の林道を歩いて散歩をしました。朝食を済ませた後、セッション前の調整の時間です。松島の雪質は東京と違って水分が少なくてさらっとしていて、雪道でもサクサクと歩きやすいのです。数分歩いて、海が一望できる場所へ。どんなに強くても柔らかな冬の太陽、頬を撫でる冷たい潮風、そして、雪に覆われた岬の風景。しばらく遠くを眺めた後、深呼吸で冷えた空気をゆっくり吸い込んで、そして吐き出しました。ひと呼吸ごとに浄化されていくような感じがしました。部屋の中に籠って過ごした前の夜とは違い、とても開放的な気分を味わいました。気持ちのいい冬の朝。またいつか、雪の松島に訪れたいと思います。

雪のひとひら、ひらひら。

Naoyaです。今日は二十四節気の20番目、小雪(しょうせつ)です。「こゆき」ではなく、「しょうせつ」と読みます。明日の23日から射手座のシーズンになります。北国や山間の地域ではそろそろ雪が降る頃。二十四節気では小雪と大雪(たいせつ 12月7日頃)という節気が続きますが、まさに冬が深まっていくという流れの時期です。初雪に遭遇したときの感覚が好きです。雪が降りそうなときの空の色は独特で、雨が降りそうなときとは明らかに違うニュアンスです。キンと冷えた空気の中、いつの間にか灰色の空からひとひらひとひら、ひらひらと舞い降りてくる雪。スローモーションに感じるひととき。視線も心も奪われます。僕は若い頃、旅行が嫌いだと公言していました。準備や後片づけ、移動が嫌いだからというのが理由でした。今、思うと非常につまらない理由ですが、マナカードを手に入れてから旅をする機会がどんどん増えました。自分の意思でというよりも、招かれて出る旅の連続でした。今では旅行が大好きです。2011年、震災から3週間後に茨城の水戸に呼ばれたことから始まり、真っ青な海が美しい伊豆諸島の新島へ呼ばれました。ご縁があって宮城の松島へ呼ばれたこともありました。そこから自分のひらめきで京都へ行くようになり、その流れで伊勢や奈良、熊野に行くようになりました。京都は春夏秋冬、すべての季節を訪れました。夏の暑さや冬の寒さが厳しい場所ですが、夏の京都も冬の京都もそれぞれに魅力があります。上賀茂神社を訪れたとき、雪が降ってきたことがありましたが、とても美しい光景でした。とある冬、京都に滞在していたとき、大好きな鞍馬寺に行きました。時間があると必ず行っている場所なのですが、その日は一段と寒さが厳しく、天気は曇りでした。出町柳駅から叡山電車に乗って、山の奥の方へとどんどん進んでいくと、途中から雪が降り始めてきました。街の天気と山の天気の違いを体感しました。終点の鞍馬駅に着いたときには、薄っすらと積っていましたが、本殿を目指して山道を歩いて行きました。本殿に到着してお参りをした後、ふと本殿の前から振り返ってみると、雪が小降りになっていて、薄日が射してきて、溶けた雪で濡れた石畳の大きな六芒星に反射していました。遠くの空には天使の梯子がかかっていて、ただでさえ神秘的な場所がさらに神秘的な雰囲気を増していました。写真を撮ったけど、写真では伝わり切らない場に宿った強いパワー、美しさ、そして言葉にできない不思議な何か。雪が降っていたので、本殿からさらに山の奥にある魔王殿を目指すかやめるか、一瞬迷ったのですが、まるで雪に導かれるように山道へ入っていきました。雪が降り続く鞍馬の森の中。本殿には人がいたものの、見回してみると歩いているのは自分ひとりきり。雪が音を吸い込んでいるせいか、自分が歩いている音以外は何も聞こえないので、ひとりという状態がより強調されているかのように思えました。雪が降る山の中でただひとり。正直、ほんの少し怖さを感じました。鞍馬は何度も訪れている場所ですが、初夏の頃とはまったく違っていて、冬の鞍馬は山や森の色を失くして見事なモノトーンでした。そこに、ただひたすら静かに柔らかく降り続く雪。非現実的な世界。魅力と畏怖は紙一重なんだと感じました。650万年前、金星から護法魔王尊が地球に降り立った場所とされている魔王殿から貴船の方へ下山した後、貴船神社の本宮にお参りをしてから奥宮へ。奥宮は神秘的で独特な空気感があるパワーに満ちた場所ですが、雪によってさらに神秘的な雰囲気が増していました。雪は浄化力が強いなんていう話を聞いたことがありますが、雪によって清められて、本来持つパワーが際立っていたのかもしれません。鞍馬は今年の台風による被害のため、最近、本殿までやっと行くことができるようになったそうですが、本殿から先の山の中には現在もまだ入ることができないそう。大杉権現社などは被害が酷いらしいです。一日も早く復旧することを心よりお祈りしています。

冬がそっと翼を広げていくとき。

Naoyaです。今日は二十四節気の19番目、立冬です。冬の始まりです。今日から立春(二月四日頃)前日までが冬となります。二十四節気には「立(りつ)」がつく四つの節気があります。立春、立夏、立秋、そして立冬。この「四立」によって、日本の季節はきっちりと四つに明確に分けられています。四つの「立」は文字通り、まるで旗を "立てる" かのような季節の始まりの目印みたい。日本の季節は四つに分かれてはいるものの、冬の始まりと終わりでは、同じ冬でも空気感がまったく違っています。二十四節気はひとつの季節につき、6つの節気がありますが、節気が進むごとに季節のトーンも違うものになっていくのです。立冬を迎えたばかりの今はまだ、晩秋のニュアンスが強く漂っていて、これからさらに冬の中心である冬至に向かって、日の入りの時刻もどんどん早まっていくところ。寒さが極まった昏い冬の果てで、少しずつ光が満ちて春へと向かい始める頃とは、風景も宿るエネルギーの感触もまったく違います。同じ季節の中でも絶妙な移ろいや表情を見ることができるからこそ、日本人は微細な季節感が育まれていると言えるのかもしれません。冬は寒いから憂鬱。若い頃はそう思っていましたが、年齢を重ねた今では、夏よりも冬の方が居心地がいいと思える時間が増えているように思えます。凩(こがらし)は冬の到来を告げる冷たく乾いた北風のことです。「木枯らし」とも表記します。春は東風(こち)、夏は薫風(くんぷう)、秋は秋風、という感じで、四つの季節にはそれぞれ季節の到来を告げる風があります。凩は暮れ行く秋の風景を、たちまち冬の色に変えてしまいます。木々は落葉して、夜の時間は長くなり、街行く人たちの服装の色彩はトーンを落としていく。すべてが冬枯れへと向かって行く中、街が華やかなイルミネーションで飾られると、肌で感じることのない温かさを感じるように思えます。僕の中での冬が始まっていくイメージは、今まで懐にしまい込まれていた白くて大きな翼が、ゆっくりと広げられていくような感じ。他の季節にはない感覚です。秋から冬へと移り変わっていく空気感や、丸みを帯びていく柔らかい陽射しには、そんなものを感じます。突き放すような夏の鋭い陽射しと違う、包容力を携えたような緩やかな陽射しは、寒い時期に太陽のありがたみを改めて感じさせながら、安堵感のような気持ちを与えてくれます。これからどんどん寒くなって夜の時間が長くなっていくと、人はついつい体を縮こめて閉鎖的なマインドになってしまいがちですが、それに反するように冬は翼をのびのびと広げていくように思えます。冬の夜の静寂の中に、そんな翼の広がりの存在を感じることがあります。プレスタートのときの一番最初の投稿で書いた「森羅万象の聲」という言葉が降りてきた夜がまさにそんな感じでした。冬という旅が今日から始まりました。

秋とは深まるもの。

Naoyaです。今日は二十四節気の18番目、霜降(そうこう)です。「しもふり」ではなく、「そうこう」と読みます。稲を刈り取った田んぼに初霜が降りることを意味しています。今日から蠍座のシーズンになり、風の天秤座から水の蠍座へバトンタッチです。猛暑だの台風だのに振り回されながら、気づいたらすっかり秋が深まっていますね。今の時期は涼しいというよりも、薄っすらと肌寒く感じることもあります。晴れた昼間は暖かく、とても気持ちがよくて、ブラブラと散歩がしたくなります。春はどこかスッキリとしない空気で、夏は余裕がなくなるほど暑く、冬も体が縮こまってしまうほど寒い。そう考えると今、秋のこの気候の時期が一年の中でもっとも過ごしやすいと言えるかもしれません。何気なく観ていたテレビの天気予報で知ったのですが、秋は一年の中でもっとも洗濯物が乾きづらい季節なのだそうです。スッキリとした秋晴れのイメージが強いので、意外に思えたのですが、秋は何気に雨が多いからだそう。確かに最近は雨が多いし、スマートフォンに入れいている天気のアプリから「雨雲が近づいている」というアラートが届くことも多いので、納得できます。今年は猛暑だったからこそ、やっと過ごしやすい季節になったことに安堵感のようなものを感じましたが、この秋が深まるほど今度は寒い季節がやってきます。過ごしやすい気候を名残惜しみながら見送っていく時期へと移り変わっていくのです。名残惜しむ感覚は、待ち焦がれる、待ち侘びるという感覚と同じく、日本人ならではの独特のものだと思っています。辿り着く場所は同じであったとしても、そこに辿り着くまでの時間やプロセスを味わうということ。それは気持ちに充分な余裕がないと、なかなか実践できないものです。移ろいながらいつかは過ぎ去って、自分の元から離れてしまう。だからこそ丁寧に大切に味わう。四季の移ろいを楽しむ日本人の心の根底には、こういう思いが無意識に存在しているんだと思います。2019年度の「宇宙詠みチャート」が完成して、昨日から告知がスタートしました。このオウンドメディア「森羅万象の聲」を始めたきっかけは「宇宙詠みチャート」でした。十二星座と二十四節気は深く関係しています。占星術や季節の移ろいを頭で理解するのではなく、感覚的に意識して、体感して、味わうきっかけの場になればという思いから立ち上げました。「宇宙詠みチャート」をより体感で理解できるきっかけの場になればと思います。どんどん秋が深まりながら、やがて暮れていきます。考えてみたら「深まる」という表現をするのは、春夏秋冬の中で秋のみなんですよね。「春秋(しゅんじゅう)」という言葉がありますが、年齢という意味です。「春秋を重ねる」みたいな使われ方をします。人の人生を春夏秋冬に置き換えて、春という初々しい始まりを経て、円熟して人としての深みが出てくる秋を迎える…というのが由来なのでしょう。何とも素敵な言葉です。季節の秋はさまざまな作物が実る時期であり、人生の秋は人としての円熟みが深まる時期。秋とはそういうものなのです。過ごしやすく気候がいい秋を楽しみましょう。慌ただしい日常を切り離して、ひとりで静かな時間を過ごすのに秋は最適です。自分を深めていくような、充実した時間をつくってみてください。霜降が終わると次の二十四節気は立冬。いよいよ冬の始まりとなります。

朝露が生まれる頃。

Naoyaです。今日は二十四節気の17番目、寒露です。本格的な秋の涼しさになりました。朝や晩にほんのり肌寒さを感じることもあります。冷えた朝、草木や花に朝露が宿るその露を寒露と呼びます。夜、窓を開けていると涼しい空気が感じられ、虫の声がたくさん聞こえてきます。外を歩いているとどこからともなく金木犀の香り。視覚から得た情報で季節を感じることが多いと思いますが、音や肌に触れる空気の感触、匂いからも季節を感じてみてください。うちの近所にはかなり巨大な金木犀が続いている並木道があって、そこらへん一帯にあの香りが漂っています。その並木道の近くを自転車で通るとき、視界にオレンジの花が飛び込んでくるよりも先に、微かに漂ってくる香りで金木犀の存在を感じるのです。秋はおいしい旬の食材も多いので、味覚でも季節を感じたいところ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、そして味覚。秋は五感がトータル的に研ぎ澄まされる季節、と言ってもいいかもしれません。個人的なことですが、寒露を迎えてしばらくすると誕生日を迎えます。なので、寒露のあたりは僕にとって、ちょうど一年のサイクルが終わる年の瀬のような感じ。新たな次の一年を迎える前の準備の時期に当たります。すべての人にとって、この世に生まれた誕生日というものは、真っ暗な母親の胎内の海から、まったく異なる明るい外の世界への旅立ちの日であり、環境が急激に変化したタイミングでもあります。100%安全に守られていた環境から、日に日に独り立ちしていかなくてはならない環境へ。イニシエーション、通過儀礼。外の世界への旅立ちを今か今かと待っている胎児は、無意識に混沌と不安が渦巻いているのかもしれません。誕生日前になると、状況や気持ちが不安定になるという人の話を聞きますが、それはきっとこの世に生まれたときと同じ状況のサイクルが起きているのかもしれません。誕生日を迎えるたびに、新しい自分が生まれるようです。そして、無事に誕生日を迎えられることに喜びを感じます。寒露の時期、旧暦9月9日の重陽(ちょうよう)の節句を迎えます。今年は10月17日がその日に当たります。現行の暦の太陽暦9月9日だと、実は菊の花にはちょっと早すぎるのです。旧暦9月9日くらいに花の盛りを迎えます。ふたつ前の投稿でも書きましたが、重陽の節句は別名、菊の節句。菊は薬草としても使われていて、延寿の力を持つものとされていたため、厄祓いや長寿祈願に用いられていたそうです。重陽の節句では、前日に菊の花に綿を被せておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできる「被せ綿(きせわた)」という風習がありましたが、菊の花が盛りを迎えるタイミングで朝露が現れ始めるという流れから、この風習が生まれたのではないかと思います。今の日本では現行の太陽暦が基本となっていますが、そこに旧暦と旧暦以前の暦の行事が混在しているので、たとえば七夕や旧正月のように昔の暦で祝う風習が残っているものもあります。言ってしまえば、太陽暦と旧暦と、旧暦以前の暦の3つが混在しているのが今の日本の暦というわけです。実際に肌で感じた季節感と現行の暦に違和感を感じても、旧暦に置き換えてみたらしっくりと来た…なんてことが意外とあると思います。カレンダーを見て頭で季節を感じるよりも、自分の肌で感じた空気感や季節感を優先してみてください。

バランスを意識する天秤の季節。

Naoyaです。今日は二十四節気の16番目、秋分です。そして、今日から風のエレメントの星座、天秤座のシーズンです。天秤座の自分にとっては、我が家に帰ってきたような安心感のある時期です。秋分は春分と同じく、太陽が真東から昇り真西へと沈んで、昼と夜の長さが一緒になります。陰と陽がちょうど半分のバランスになるときです。秋分を中心とした7日間は秋の彼岸となります。仏教では西という方角は、極楽浄土があるとされている方向とされているため、春と秋の彼岸に極楽往生を願った仏事が執り行われるのだそうです。彼岸とは川や海の向こう岸という意味。煩悩だらけの「この世」で修行を経て悟りを得て、「あの世」という向こう岸へと辿り着くというわけです。昼と夜とか。「この世」と「あの世」とか。あるいは、暑さと涼しさとか。この時期に二極のバランスやコントラストを無自覚に意識させられるのが、相対的思考の天秤座の季節というのがユニークです。天秤座の守護星は金星で、牡牛座も同じく金星です。金星が司っているので、牡牛座も天秤座も美意識が高いと言われますが、牡牛座の美とは、自分が美しいと思ったものが一番美しいという「絶対的な美」で、天秤座の美とは、他者の美とのバランスから自分の美を見出す「相対的な美」です。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、まさに暑さも落ち着く頃。秋の草花も見頃になってきています。曼珠沙華、別名「彼岸花」の燃えるような赤に心奪われたあり、竜胆(りんどう)の青みがかった紫に安らぎを感じたり、菊の造形美に好奇心を掻き立てられたり、どこからともなく香ってくる金木犀の香りにハッとしたり、秋はさまざまな感覚で楽しませてくれる花がいろいろあります。ちなみに曼珠沙華は英語で "spider lily" と言います。蜘蛛の百合。確かに形が蜘蛛っぽいですよね。秋にも春同様、七草があります。春の七草はお粥にして食べて、無病息災を祈るものですが、秋の七草は鑑賞して楽しむものです。薬として使われていたものもあり、日本人にゆかりや親しみのある草花が選ばれていますが、春の七草のようにすべての草花を取り揃えて、何かをするというわけではありません。秋の七草は以下の通りです。*萩(はぎ) くさかんむりに秋と書く花。秋の彼岸にお供えする「おはぎ」の名前の由来。*尾花(おばな) ススキの別名。ススキの穂が動物の尻尾に似ていることが由来。*葛(くず) 葛餅や葛湯、葛切りの原料。根を乾燥させた葛根は、漢方薬としてもお馴染み。*撫子(なでしこ) 清楚な日本女性を表現する「大和撫子」は、この花が由来。*女郎花(おみなえし) 名前の由来は、花の美しさが美女を圧倒するということから。漢方薬としても使用。*藤袴(ふじばかま) 花の色が淡紫色で、弁の形が筒状で袴に似ていることが名前の由来。*桔梗(ききょう) 多くの武将の家紋に用いられた花。根を乾燥させて漢方薬としても使用。秋の七草は春の七草と比べると、あまり馴染みがないと思います。だから、秋の七草が何かを知らないという人のが多いと思います。秋の七草の覚え方は2通りあります。ひとつ目は、五・七・五・七のリズムで覚える方法。「ハギ・キキョウ クズ・フジバカマ オミナエシ オバナ・ナデシコ」この並びでリズムよく、何度も繰り返して覚えるのです。春の七草もこのリズムで覚えるやり方です。そしてもうひとつの方法は、「お好きな服は?」=「お・す・き・な・ふ・く・は」という語呂で覚える方法です。これは、お=オミナエシす=ススキき=キキョウな=ナデシコふ=フジバカマく=クズは=ハギというそれぞれの草花の頭文字を繋いだものです。頭で覚えるよりも、実際にその草花に触れた方が覚えやすいと思います。現在は絶滅危惧種に指定されていて、野生で見ることのできないものもありますが、機会があったらぜひ実物に触れてみてください。立秋を過ぎて秋分を迎えて、秋が深まってきています。秋が深まってくるということは、冬がどんどん近づいてきているということを意味します。秋分で昼と夜の長さが同じになって、そこからさらに日没が早くなり、昼が短く夜が長くなっていきます。夏の暑さから解放されて、穏やかで過ごしやすい季節やっとやって来たことを実感する日々。この安堵感も徐々に自分の元から旅立っていき、寒くなっていくと思うとちょっと寂しくもあります。日本の四季というものは、喜びに満ちて迎え入れることと名残り惜しく見送ることの繰り返しなのです。リビングに竜胆と菊を飾りました。通りがかりの店で見つけた秋らしい組み合わせ。秋はおいしい旬の食材もたくさんあるので、ごはんがおいしい季節でもあります。夏の暑さで消耗したエネルギーを、穏やかな気候の中でリカヴァーして、自分にとってのベストな心身のバランスを回復させましょう。

儚さを生きてこそ永遠に触れる。

Naoyaです。今日は二十四節気の15番目、白露(はくろ)です。白露とは、夜の間に大気中の水蒸気が冷却されて、朝、草や葉に白い露が結ぶことから名づけられたと言われています。露が「結ぶ」という言い方、とても日本的な風情がありますね。露は他にも「置く」「消ゆ」「散る」「乱る」といったいろんな動詞を伴って、多彩な表現に用いられます。陽が射してくると徐々に蒸発して消えてなくなり、揺れてしまえば一瞬にして落ちてなくなる。露は儚い存在です。朝露が輝く風景は、ほんの束の間。まだ誰も触れていない朝にしか出会えないものです。そろそろ野には薄(すすき)の穂が姿を現して、空は高くなっていき、日中はまだ暑い日もありますが、朝夕は涼しさを通り越して肌寒さを感じるときもあるでしょう。うちの近所は森に隣接しているせいもあり、夜、窓を開けると虫の声の大合唱が微かに聞こえてきます。あぁ、秋だなぁと実感するひとときです。二十四節気には、雪や雨、露、霜という名称が使われていることや、二十四節気には登場しないものの、夏は湿度がとても高いので、日本の四季は寒暖を問わず、水とのゆかりが深いことがうかがえるかと思います。今の時期は台風のシーズンです。今年は例年よりも台風が多く、豪雨による被害が出ているエリアもあります。水は生命を支えて育むものですが、その反面、人の命を脅かす側面もあることを改めて痛感しています。被害に遭われた方々は、1日も早く復旧できますよう心よりお祈り申し上げます。明日9月9日は、重陽(ちょうよう)の節句です。現代ではあまり馴染みがありませんが、旧暦時代に中国から伝わった五節句があって、重陽の節句はそのひとつ。他は1月7日の人日(じんじつ)の節句、3月3日の上巳(じょうし)の節句、つまり桃の節句の雛祭り、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句です。一番大きな陽数(ようすう)である9が重なる日を重陽の節句と定めて、不老長寿や繁栄を願う行事とされていました。重陽の節句は別名、菊の節句。菊は薬草としても使われていて、延寿の力を持つものとされていたため、厄祓いや長寿祈願に用いられていたそうです。これからの時期、菊のコンクールが開催される地区もたくさんあると思いますが、育てた菊を持ち寄って優劣を競う「菊合わせ」という風習が元になっているのだとか。近所の神社でも、毎秋必ず立派な菊が披露される催しが開かれています。かつて重陽の節句では、菊の花びらを浮かべたお酒や菊を漬け込んだ「菊酒」を呑んだり、菊を詰めた枕で眠り、菊の香りで邪気を祓う「菊枕」などがあったそうです。重陽の節句では、前の日に菊の花に綿を被せておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできるとされる「被せ綿(きせわた)」という風習もあったそうです。ここでも露が登場するのですが、露は儚いものの象徴である反面、不老長寿や極楽往生の喩えとしても使われているのが興味深いです。諸行無常。この世のすべての物事は同じ形を留めず、常に変化し続けていきますが、変化は表面的な部分で起きていることであって、もっと奥深いところには不変なものが存在すると思っています。変わりゆく儚い世界を懸命に生きていればこそ、永遠とはいかなるものなのかに触れることができる扉が、ある日、目の前で開きます。つい先日、とある私的な出来事を通じて、僕のその扉が開いたところでした。僕の中では、儚さと永遠は背中合わせというか、同質なものに感じるのです。…なんて、ふと思った秋の夜。

柔らかなピリオド。

Naoyaです。今日は二十四節気の14番目、処暑です。そして、今日から乙女座のシーズンへ突入となりました。処暑の処という字は「留まる、止まる」という意味で、ようやく暑さが和らいで収まってくる頃というのが処暑です。いつまでも落ちない夏の長い夕暮れも、夏至を境に少しずつ短くなってきています。日本人特有の夏の終わりの寂しさは、子どもの頃に散々味わった夏休みの終わりのあの寂しさや名残り惜しさが、大人になってもそのまま踏襲されているようにも思えます。先日、うちの近くの国道沿いにあるコーヒーショップへ、読書をするために自転車で出かけたときのことでした。コーヒーショップへは丘を越えて行かなくてはならないので、丘のてっぺん近くまでの上り坂で自転車を押していました。午後3時過ぎだったので、陽射しはまだ強くて汗ばんできていたものの、風はどこか涼しさを感じさせていました。帰りの日没寸前の時間帯はさらに暑さが和らいで、空には秋らしい雲が浮かんでいました。立秋の頃はまだ夏からバトンタッチしたばかりで、まるで行く夏からの餞(はなむけ)のような夏めいた暑さが残っていました。立秋過ぎてもまだ残る暑さのことを「餞暑(せんしょ)」というそうですが、その暑さもお盆を終わりを迎える頃には、だいぶ和らいで過ごしやすくなってきています。そんな陽射しと涼しげな風の中で自転車を漕いでいたら、昔、屋外プールに通いまくっていた夏のことが不意に過ぎりました。若い頃の僕はプールに通って泳ぎまくっていたのですが、夏の週末は朝っぱらから午後の陽射しが翳り始める時間帯まで、ずっと屋外のプールで過ごしていました。プール開きの頃はまだ水が透明で冷たくて、陽射しも初々しくてエッジが立った感じ。夏らしさもまだぎこちないですが、夏のピークの頃には陽射しがすっかり円熟して強くなって、プールの水も陽射しの強さや多くなってきた人手のせいでだいぶ温んでいます。プールサイドはかなり熱くなっていて、素足で歩くのが大変です。僕はプールサイドに場所を取り、横になって日焼けをしつつ、熱くなるとしばらく泳いで、そしてまた日焼けをして、泳いで…を繰り返していました。強い紫外線を長時間浴びて過ごすなんて、今じゃ恐ろしくて絶対にできません。8月も半ばに差し掛かり、ちょうど今ぐらいのお盆を過ぎたシーズンになってくると、プールサイドに吹く風が、時折涼しくて肌寒く感じるようになってきます。眩しい陽射しを浴びながら、ふと吹いてくる風に肌寒さを感じるとき。ちょっと大きめのバスタオルを肩から纏って体を包んでプールの方に目をやってみると、どこからともなく現れたトンボが水面を掠めながら飛んでいきます。それを目にすると、屋外プールのシーズンも終わりなんだなぁと感じるのです。散々熱っぽかった夏に、ピリオドがふわっと柔らかく打たれるような瞬間です。若い頃は二十四節気のことなど、さほど意識していませんでしたが、思い返してみると初夏の頃から晩夏の頃まで、夏という季節の微細な移ろいをプールサイドで、肌や目、匂いや音で毎年感じていたわけです。それは感覚的で、ちょっと動物っぽくもあります。今年の夏は暑さがかなり厳し過ぎて、夏を楽しむ余裕がなかったという人もいるかもしれません。これからの時期、まだ暑さがぶり返す日もありそうですが、季節はどんどん秋へと向かってだいぶ過ごしやすくなっていくと思います。ぜひ、感傷的な夏の終わりと深まっていく秋とのグラデーションを味わってみてください。

暦の秋。

Naoyaです。今日は二十四節気の13番目、立秋です。二十四節気も後半へ突入して、暦の上では秋になりました。実感としてはまだ夏ですが、そんな夏の中に秋の気配を見つけることもあれば、これから徐々に秋へと移り変わっていく中で、行く夏を名残り惜しむようになっていきます。今年の夏は猛暑の地域も多いので、穏やかな秋が待ち遠しいという人も多いかとは思いますが。でも、陽射しは確実に和らいできています。ちょっと思い出してみてください。7月の最初の頃の陽射しはもっとエッジが効いていて、鋭く突き刺さる感じだったと思います。下ろし立ての真っ白いシャツに、初めて袖を通すようなパリッとした感触にも似ていると思います。今の陽射しは熱いものの、鋭さがなくなって丸みを帯びてきた感じ。だいぶ着こなして馴染んだシャツのように思えます。昼間は暑いけれど、夕方や夜の空気は秋めいている日もどんどん増えていくと思います。空のトーンや雲もいつしか秋めいていくでしょう。春夏秋冬、季節ごとの特徴が明確な日本。二十四節気で区分けされた暦が季節の移ろいのガイドになっています。その季節のピークが過ぎたあたりから、次の季節の気配を徐々に感じ始めたとき、次を探っていく楽しさがあります。特に季節と季節の境目の時期は、待ち遠しさと名残り惜しさが交差して、気持ちが入り混じる独特なタイミング。これからの時期は、暑さも徐々に和らいでいくと思います。秋の気配を見つけながら、移ろう季節を感じてみてください。忙しく時間に追われていると、季節の移ろいを落ち着いて味わうことはなかなか難しいです。ちょっと心に余裕を持つ時間をつくって、そのときの空気感を肌で感じてみてください。今年は桜の開花も梅雨明けも例年よりはかなり早かったですが、そういうものは暦で計り切ることができないものです。いつもとは逆のコースを辿った先日の台風を見ていて、大いなる自然や地球、そして宇宙の流れは人間がコントロールできるものではなくて、予想を軽々と裏切ることもあるんだなと改めて思いました。同じ時期に同じようなことが起こると思い込んでいるのは、人間の勝手な都合や解釈なだけです。同じ時期に同じようなことが起きているようで、実は微妙な変化もあるわけです。大きな変化でないと、なかなか気づきにくいんだと思います。暦はあくまでも参考程度に捉えて、そのときの季節感や空気感から何を感じるのかを大切にしてみてください。8月15日はお盆です。7月15日のお盆に対して旧盆という言い方をしますが、正確に言うならば「月遅れのお盆」です。これは旧暦か新暦かを採用するかの違い。一般的に多くの企業などでは8月15日前後を採用するところが多いですが、お盆は元々、旧暦の7月15日に行われていました。でも、新暦の7月15日あたりの時期は真夏で、農作業の人たちにとっては田んぼの草取りで忙しかったりもする。なので、「月遅れのお盆」という形になったのだそうです。今の時期、旧暦の七夕の飾りつけやお祭りをやっているところもありますが、2018年は8月17日が伝統的七夕です。今の暦の七夕は毎年必ず7月7日ですが、伝統的七夕は旧暦以前の日本の太古の暦がベースになっていて、その年によって変わります。二十四節気の処暑(立秋の次の節気)以前で、一番近い新月の日を1日目(7月1日)として7日目を七夕と定めるそうです。新月から7日目ということで、月の形は上弦に近い状態になります。今の暦だと、七夕の時期はほとんど梅雨空で雨ということも多いですが、伝統的七夕のあたりは梅雨が明けて晴れていることも多く、伝統的七夕の夜は、織姫星がほぼ頭上の真上にあり、彦星も高く上がります。そしてその間には天の川が横断しています。空気が澄んだ場所でないと、なかなかわかりづらいとは思いますが。やはり旧暦や旧暦が導入される前の日本の太古の暦で数えた方が、しっくりとくるものや納得できるものは多いです。旧暦を意識してみると、意外な発見があるかもしれません。